ウィリアム・アダムズは、1564年イギリスのケント州に生まれる。少年の頃からロンドンの造船所に弟子入りし、12年間、造船技術をはじめ天文学や航海術などを学ぶ。海軍に入り、スペインの無敵艦隊がイギリス本土を攻撃しようとした時、アダムスは20代なかばでイギリス艦隊の食糧や弾薬の輸送艦の艦長に抜擢されるほどになっていた。その後、貿易会社に勤め、シベリアから東洋への北東航路の探検隊に参加した。1598年にオランダの東洋遠征隊に志願。5隻からなる船隊の主任航海長に選ばれることとなり、南米南端のマゼラン海峡を通過し、大平洋を横断して東インドへと向かった。

暴風雨のなか、 5隻のうち、4隻は行方不明となった。最後まで残った1隻『デ・リ−フデ号』は1600年に九州豊後の臼杵湾に漂着した。栄養失調と病気で、24名のアダムス含む乗組員のうち、なんとか立ち上がれる者は、9名しかいない状態であった。ところが、漂着するやいなや、ポルトガル宜教師に誹謗中傷され、アダムスらは即座に処刑されることとなり、大阪城で牢獄に閉じ込められてしまった。

その時、ヨーロッパと平和的な交易を望んでいた徳川家康は、アダムスらを無罪にして保護するかわりに、航海の経緯や、ヨーロッパの事情、文明などについて教えることを条件とした。後に、家康はアダムスに[ヨーロッパ式帆船建造命令]を発し、80トン、続いて120トンの帆船の建造に成功した。アダムスの功績を讃え、家康は三浦半島の逸見村(現在の神奈川県横須賀市西逸見町)に、250石の領地と大小の刀までをも与え、名前も「三浦按針」と命名。「三浦」は地名で、「按針」はパイロット、水先案内人や羅針盤の意味である。これからの日本の進むべき方向を示してくれる良きアドバイザー、といった期待も込めて考えたのであろう。20年間日本の水先案内人として活躍したアダムスは、1620年春、享年57歳で、平戸にて人生の幕を閉じたのであった。